内閣府のホームページによると、Society1.0は「狩猟社会」と定義されている。
農耕や採集、狩猟など、原始時代と呼ばれる社会だ。まさに弱肉強食がイメージでき、最大のミッションは衣食住を確保し生命維持や種の保存を常日頃から意識するような社会だと想像できる。
この環境では「世界を良くし地球環境を考えよう」などといった発想にはとうてい及ばず、自分たちが活動するコミュニティが世界の全てであり、地球であると感じるだろう。
次に、Society2.0「農耕社会」の登場である。読んで字のごとく、農業をおこない田畑を耕すことで、衣食住に関しては圧倒的に進化し安定しただろう。
ただ、ここから「所有」という概念や意識が強くなっていったのではないだろうか。
それが現代社会に置いても、いまだに続く「格差社会」の始まりのように思えて仕方がない。
これは自分のものか自分以外のものか、ここは自分の土地か自分以外の土地かなど、本来平等に与えられたものを所有物として扱うようになっていったのがこの頃からだろうと推測する。
さて、時代は一気に進み、Society3.0「工業社会」の登場である。「効率や便利」といった概念や意識が加わってくる。
人間の力を何倍にも増幅し、仕事や生活においても、より少ないエネルギーで大きなリターンを得ようとする発想に転換していったのではないだろうか。
人や自然より金や物質に価値を見出し、現代ほどではないにしろ、大量生産・大量消費が進んでいっただろう。
そして、Society4.0「情報社会」が現代である。インターネットの登場から携帯電話やスマートフォンの登場、IoT などあらゆる物がネットワークにつながる環境など、世界中が一瞬でつながる空間が構築された。
おおむね、地球上のどこにいてもスマートフォン1台あれば、すべての情報にアクセスできる。
知りたい事をすぐに調べられ、生活に困ったことや学びたいと思った事は、ほぼすべてそこに存在している。だが、この進化を手放しでは喜べない。
何故なら、格差社会がさらに広がり、真に必要な情報や教育などは一部の力のある場所に集まっており、全人類が平等に享受できる状態ではないと強く思うからだ。
いわゆる「中央集権」という状態である。皆が自由に選択をしているようで実際には選択させられている世界ではないだろうか。